公式が新たに提示した統率者戦(EDH)に関して@統率者戦(EDH)
2012年2月5日 Mtg考察以下の文章は個人の意見です。様々な意見があると思います。
自分はほかの人に自分の思想や意見を強要するつもりは全くありません。そのことを踏まえて読んでいただきたいです。
まず、公式は公正ではない。
程度の差こそあれ、記事はあくまで執筆者の個人の意見によるところが入るというのが実情だろう。
つまり、その個人の考えにより多かれ少なかれ左右される。
加えて、これも当然のことだが、ゲームが人間が作ったものである以上、ルールは人間がつくる。
つまり、必ずしも万人に対して、全人的に設定される訳ではない。
特定の集団の利益になるためのルール設定・改訂は存在する。
スキーのジャンプにおけるスキーの長さ制限はなんのために設けられたのかを考えればいい。
設定した人は表向きでは「大義名分」を振りかざすだけだ。
今回の統率者の場合、たまたま公式記事を書く人が統率者戦でコンボデッキを嫌う人だったのかもしれない。
極論を言えば、白単や、《静寂の守り手、リンヴァーラ/Linvala, Keeper of Silence》を使いたかったのかもしれない。
→さすがにこれは極論すぎる。まず、無いだろう。
しかし、その可能性をゼロと言えるだろうか?
本人に聞いたところで、「みんなが楽しめる統率者戦・・・」なる「大義名分」が返ってくるだけであろう。
真意は誰も分からない。
公式では当然のように《静寂の守り手、リンヴァーラ/Linvala, Keeper of Silence》が紹介されていた。
自分も、「どうせ、サーチカードやらを禁止する人が出てくるんだろうな」と思い、《巻物の君、あざみ/Azami, Lady of Scrolls》を作ったが。
噂にはあったがまさか本当にやるとは・・・
もう他の方々も書いていると思うが、公式が打ち出した改訂ルールについて考えてみる。
まず、いろいろなところで言われている通り、多色デッキは非常に厳しいだろう。いや、実際にやってみて厳しかった。
「二色ならなんとか・・・」
という意見もあるが、それはジェネラルの色拘束次第だろう。
三色以上は壊滅的だ。
多色デッキにとって、《ハルマゲドン/Armageddon》は投了ものだ。
追加のマナ基盤をクリーチャー・アーティファクトに頼りきる為、《ジョークルホープス/Jokulhaups》や《抹消/Obliterate》など唱えられようものなら、再起不能。
単色デッキは《無のロッド/Null Rod》や《呪われたトーテム像/Cursed Totem》を搭載することで更に多色デッキに対して優位に戦える。
青単なら《基本に帰れ/Back to Basics》や《魔力流出/Energy Flux》も搭載すればいい。
では、土地のサーチのみを許すのか?
そうなったら、最早滅茶苦茶だ。
新たなルールを作れば、新たな問題が生まれる。
鼬ごっこだ。
月並みな結論になるが結局はプレイする環境に任せれば良いと思う。
しかし、逆説のようだが、その反面、多くの人がプレイする以上、共通のルールは必要である。
ラテン語を母体とする多くのヨーロッパ言語はラテン語のルールを各々の集団が追加及び削除したために違う言語になってしまった。
それらの言語は他の言語とは最早、通じることは出来ない。勿論、似ているのでわかるものもある。(ヨーロッパ言語の発生には諸説あるが・・・)
別にこのことが悪いことだとは思わない。
以上のように様々な「ルール」が乱立されてしまうと、統率者戦も同じようなことが起きないだろうか。
そして、統率者戦は言語ではない。
同じカードゲームとして競う以上、同じルールでなくては困るのだ。
その叩き台として公式がルールを提示してくれたのかもしれない。
新たな指針とするには良いのかもしれない。
ただ漠然と統率者戦のルールを模索するよりも、骨組みとなるようなものがあったほうが良いのは確かだ。
加えて、自分はこのルールでは4回程度しかやっていない。
まだまだいろんな発見はあるだろうし、感触だけで決め付けるべきでは無いのかもしれない。
しかし、個人的に疑問なのが、「《締め付け/Stranglehold》と《墓掘りの檻/Grafdigger’s Cage》がある状態」として紹介したことだ。
説明として「分かりやすさを重視」とも取れるかもしれないが、これらのカードを知らない人には全く意味がない。
むしろ、「禁止カード」という言葉を隠すために使われたとも取れる。
実際、「サーチカード全面禁止」+「リアニメイト系呪文禁止」+αのようなものなのだから。
結局のところ、個々人が工夫するしかない。
それは住み分けであったり、プレイングであったり。
「強いジェネラル」と「強いデッキ」は必ずしもイコールではない。
個人的には「強いジェネラル」や「強いデッキ」もプレイング如何では楽しむことを目的として色々な卓に参加できると思っている。
アピールをしても、そういったことを知らない人からは集中砲火を浴びることもあるが、それは仕方がない。
デッキも結局はプレイする人次第。
デッキによって戦うゲームである限り、統率者戦もプレイする人が大事であり、ルールだけが原因とは言えないのでは無いだろうか。
自分はほかの人に自分の思想や意見を強要するつもりは全くありません。そのことを踏まえて読んでいただきたいです。
まず、公式は公正ではない。
程度の差こそあれ、記事はあくまで執筆者の個人の意見によるところが入るというのが実情だろう。
つまり、その個人の考えにより多かれ少なかれ左右される。
加えて、これも当然のことだが、ゲームが人間が作ったものである以上、ルールは人間がつくる。
つまり、必ずしも万人に対して、全人的に設定される訳ではない。
特定の集団の利益になるためのルール設定・改訂は存在する。
スキーのジャンプにおけるスキーの長さ制限はなんのために設けられたのかを考えればいい。
設定した人は表向きでは「大義名分」を振りかざすだけだ。
今回の統率者の場合、たまたま公式記事を書く人が統率者戦でコンボデッキを嫌う人だったのかもしれない。
極論を言えば、白単や、《静寂の守り手、リンヴァーラ/Linvala, Keeper of Silence》を使いたかったのかもしれない。
→さすがにこれは極論すぎる。まず、無いだろう。
しかし、その可能性をゼロと言えるだろうか?
本人に聞いたところで、「みんなが楽しめる統率者戦・・・」なる「大義名分」が返ってくるだけであろう。
真意は誰も分からない。
公式では当然のように《静寂の守り手、リンヴァーラ/Linvala, Keeper of Silence》が紹介されていた。
自分も、「どうせ、サーチカードやらを禁止する人が出てくるんだろうな」と思い、《巻物の君、あざみ/Azami, Lady of Scrolls》を作ったが。
噂にはあったがまさか本当にやるとは・・・
もう他の方々も書いていると思うが、公式が打ち出した改訂ルールについて考えてみる。
まず、いろいろなところで言われている通り、多色デッキは非常に厳しいだろう。いや、実際にやってみて厳しかった。
「二色ならなんとか・・・」
という意見もあるが、それはジェネラルの色拘束次第だろう。
三色以上は壊滅的だ。
多色デッキにとって、《ハルマゲドン/Armageddon》は投了ものだ。
追加のマナ基盤をクリーチャー・アーティファクトに頼りきる為、《ジョークルホープス/Jokulhaups》や《抹消/Obliterate》など唱えられようものなら、再起不能。
単色デッキは《無のロッド/Null Rod》や《呪われたトーテム像/Cursed Totem》を搭載することで更に多色デッキに対して優位に戦える。
青単なら《基本に帰れ/Back to Basics》や《魔力流出/Energy Flux》も搭載すればいい。
では、土地のサーチのみを許すのか?
そうなったら、最早滅茶苦茶だ。
新たなルールを作れば、新たな問題が生まれる。
鼬ごっこだ。
月並みな結論になるが結局はプレイする環境に任せれば良いと思う。
しかし、逆説のようだが、その反面、多くの人がプレイする以上、共通のルールは必要である。
ラテン語を母体とする多くのヨーロッパ言語はラテン語のルールを各々の集団が追加及び削除したために違う言語になってしまった。
それらの言語は他の言語とは最早、通じることは出来ない。勿論、似ているのでわかるものもある。(ヨーロッパ言語の発生には諸説あるが・・・)
別にこのことが悪いことだとは思わない。
以上のように様々な「ルール」が乱立されてしまうと、統率者戦も同じようなことが起きないだろうか。
そして、統率者戦は言語ではない。
同じカードゲームとして競う以上、同じルールでなくては困るのだ。
その叩き台として公式がルールを提示してくれたのかもしれない。
新たな指針とするには良いのかもしれない。
ただ漠然と統率者戦のルールを模索するよりも、骨組みとなるようなものがあったほうが良いのは確かだ。
加えて、自分はこのルールでは4回程度しかやっていない。
まだまだいろんな発見はあるだろうし、感触だけで決め付けるべきでは無いのかもしれない。
しかし、個人的に疑問なのが、「《締め付け/Stranglehold》と《墓掘りの檻/Grafdigger’s Cage》がある状態」として紹介したことだ。
説明として「分かりやすさを重視」とも取れるかもしれないが、これらのカードを知らない人には全く意味がない。
むしろ、「禁止カード」という言葉を隠すために使われたとも取れる。
実際、「サーチカード全面禁止」+「リアニメイト系呪文禁止」+αのようなものなのだから。
結局のところ、個々人が工夫するしかない。
それは住み分けであったり、プレイングであったり。
「強いジェネラル」と「強いデッキ」は必ずしもイコールではない。
個人的には「強いジェネラル」や「強いデッキ」もプレイング如何では楽しむことを目的として色々な卓に参加できると思っている。
アピールをしても、そういったことを知らない人からは集中砲火を浴びることもあるが、それは仕方がない。
デッキも結局はプレイする人次第。
デッキによって戦うゲームである限り、統率者戦もプレイする人が大事であり、ルールだけが原因とは言えないのでは無いだろうか。
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